御祭神
菅原氏は、古代豪族の土師氏の出身で、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文書経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。
道真公は清公(きよきみ)公、是善(これよし)公と続く文章博士(もんじょうはかせ)の家系に生まれました。母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格し、30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。一時、讃岐守という地方官へまわされましたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。そして、55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられましたが、その直後、急転して大宰府左遷となりました。
大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、天を怨まず国家の安泰と天皇さまの御平安をお祈りし、ひたすら謹慎され、配所から一歩も出ることはなかったようです。劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真公を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年(903)2月25日、白梅の花びらが散るように亡くなられました。
御遺骸は、門弟の味酒安行によって、大宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が創建されました。その後、朝廷でも罪なきことが判明し、人から神の御位に昇り、天満天神、学問の神・文化の神として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。